小原田の歴史

旧奥州街道沿いの宿場町として栄えた、小原田の歴史についてご案内します

〜 小原田宿 〜

江戸時代、奥州街道(旧国道)沿いの小原田宿には『枡形(ますがた)』が設けられていました。『枡形』とは、直進できないように道路を左、または右に直角に曲げ、土塁や柵で塀を築いた施設です。その形が四角い枡に似ていることから『枡形』と称しています。
『枡形』には番人を置いて通行人を監視していました。現在でも道路が曲がっており(小原田郵便局のところ)、『枡形』の面影を伝えています。
また、小原田には高札場(こうさつば)と一里塚(いちりづか)が築かれていました。高札場は徳川幕府や二本松藩の触書(命令書)を、人目につきやすい場所に簡潔な文章にして掲げておくところです。高札場は、『枡形』の中央に設けられていました。

〜江戸時代の小原田宿『増補行程記』より〜 もりおか歴史文化館所蔵

『増補行程記』より 図151〜図154(小原田付近) もりおか歴史文化館所蔵
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「奥州道中増補行程記」は、1751年(宝暦元年)に盛岡藩主の命で同藩士の清水秋全が著作したものです。1689年の松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅より約60年後の江戸日本橋から盛岡までの街道界隈の風景が克明に描かれた古文書です。また、本資料は軸物ではなく和綴の冊子状の資料であり、上図写真は見開き部分を合成したものです。

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